宗教による葬儀の違い
葬儀の前に宗教・宗派の確認を
葬儀は宗教と切り離しにくいもので、お葬式の多くは宗教者が主導する宗教的儀礼として行われます。宗教が違えば、葬儀のかたちや手順も違ってきます。また同じ宗教でも、宗派によって作法なども違うものになります。
このため葬儀は、故人の信仰や喪家が属している宗教・宗派の宗教者、儀礼・手順によって行わなければなりません。そうでないと、たとえば仏教式の葬儀であっても、菩提寺(檀家となっている寺)がありながら、その寺とは違う宗旨・宗派で葬儀をしてしまった場合、菩提寺のお墓に入れなかったり、本来の宗旨宗派で葬儀をやり直さなければならなくなることもあります(お墓によって葬儀も決まる)。
ふだんは宗教や信仰を意識することがなくても、いざ葬儀というときには、故人や自分の家の宗教・宗派について把握しておくことが必要です。
また、私たち葬儀支援ネットや葬儀社にも、宗教・宗派の情報は正確にお伝えください。それに沿って手配をいたします。
葬儀の違いは「生と死」に対する考え方の違い
宗教・宗派によって葬儀に違いがあるのは、それぞれの宗教・宗派によって「死生観」が違うためです。葬儀の手順も作法も、それぞれの宗教・宗派における「死生観」=「生と死に対する考え方」に基づいて、伝統的に形づくられてきています。
例えば、日本の仏教では、亡くなった人は来世で仏の弟子になるとされますが、神道では火葬・埋骨後も、故人の霊魂は祖先の霊とともに家にとどまり家族の守り神になるとされます。一方、キリスト教では死は「召天」または「帰天」と言って、神に召されて天国で安息を得る喜ばしいことであると考え方ます。
こうした死生観の違いは、それぞれの宗教・宗派の葬儀にも反映されています。仏教の禅宗での葬儀は、死者に仏弟子となるための戒律を授け引導する儀式として構成されていますし、神式の葬儀では、故人の霊魂を祖霊舎に神として祀る儀式が中心となっています。キリスト教の葬儀もまた、その死生観に沿って、故人が神に召され安息を得られるように祈ります。
葬儀は宗教・宗派の死生観と出会う機会
宗教について、広辞苑では「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」で「帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。」とされていますが、日本ではふだん、特定の宗教・宗派への帰依や信仰の意識を持っていない人が多数派です。
しかし一方で、そうした帰依・信仰意識の有無に関係なく、私たちの日常生活には宗教と深く結びついた文化、習慣が多くあります。
例えば、日曜日を休日と定めたのはキリスト教による文化ですし、春分の日・秋分の日という暦の節目は仏教の彼岸会と重なり、「暑さ寒さも彼岸まで」の名句となって私たちの生活に浸透しています。同じく、8月中旬を中心とした盂蘭盆会(うらぼんえ)の仏事が行われる時期には、「お盆休み」として多くの企業・官公庁が休業します。
また、葬儀の際の「清め塩」は死を穢れとする神道から生じた慣わしですが、盛り塩など、清めや祈願のために塩を使う習慣は、古くから私たちの生活の中に散見されます。
このように、ふだんから私たちの日常生活には、いろいろな宗教の死生観が影響を及ぼしている面が多々あります。葬儀はそうした宗教の死生観を改めて意識し、出会う機会でもあります。
清め塩
「清め塩」は、本来、死を穢れとする神式葬儀におけるものですが、仏式葬儀などでも式場出口に塩が用意されたり、会葬御礼に塩の小袋が付けられることが広く行われています。しかし、仏教では生と死はひとつの世界にあり、死を穢れたものとする考え方はしません。したがって仏式葬儀で「清め塩」を用いるのは、明らかに仏教の教義・死生観に反することで、現在、仏教各宗派では「清め塩」を排除する方向に進んでいます。仏式葬儀の場合にはこのことを承知して、「清め塩」を付けるかどうか判断した方がよいでしょう。
なお、会葬御礼に入れられる「清め塩」の小袋は葬儀社がサービスとして付けているもので、葬儀の必須品ではありません。このため、「清め塩」の問題点を承知している葬儀社では、仏式葬儀の場合、事前にご喪家の意向を伺うようにしているようです。また、定法通りに「清め塩なし」とした仏式葬儀でも、会葬者が希望すれば渡せるようにしているようです。